耳をつんざくような蝉の大合唱の中、3人は座ったまま無言で川を見つめていた。
時々誰かが汗を拭ったり、ペットボトルから水やお茶を飲む以外、何も動きはない。
ただ口をつぐんだまま、橋の下に広がる緑がかった水面を見つめる。
そうして時間が過ぎていく中で太陽は段々と傾いていき、先程まで日陰になっていた場所に西陽が差し始めている。
どれくらいの時間そうしていたか、由仁子が久しぶりに口を開く。
「眩しいね」
その言葉を聞いて、光は頷いてから一拍置いて立ち上がり、座っていたアウトドア用の椅子を畳んだ。
「ちょっと移動しようか」
由仁子も椅子を畳み、通は車椅子のブレーキを解除する。
また日陰になっているところを探して、眼下を流れる比良川に上り向きに沿うように、無言でとぼとぼと移動する。
歩きながらも川の様子は横目で見るが、水が流れる以外、何も動きはない。
河童どころか、魚や野生動物の気配も無い。
いつも通り先頭を歩く由仁子が、白いスニーカーの靴底をパタンパタンと音を立てるようにして歩いているのが、後ろから続く光と通にはなんだか不貞腐れているかのようにも見えた。
「由仁子、カメラ使ってもいいか」
光が声をかけると、由仁子が呆けたような顔で振り返る。
そして、カメラバッグの中に手を突っ込んでサッと顔色を変える由仁子が口を開く前に、光は自分のリュックの中からカメラを取り出して見せる。
「あれ!? なんで光が持ってんの」
「さっき預かったろ、スマホ探してたとき」
「えー? 覚えてないけど……使っていいよ」
光がカメラの電源を付けて使い方を確かめるように集中し始めたので、後ろを振り返りながらふらふらと歩いていた由仁子はしっかりと前に向き直る。
前を向いてから、どこ行っても眩しいねえと大きめの声で呟いたのを、通は自分に向けて言ったのだと察した。
黙々とカメラとの睨み合いを続ける光を、通が車椅子のハンドリムを回す手に力を込めて控えめに追い越した。
「由仁子先輩」
「んー」
「少し疲れちゃいましたか? 糖分補給しますか?」
「する!」
糖分、と聞いた瞬間に顔色を明るくする由仁子。
受け取った飴を口に入れてコロコロと転がしながら、お礼のつもりなのか通の頭を優しく撫でて微笑む。
通も、由仁子に笑顔が戻ったのが嬉しいのか、目を細めてエヘヘと笑う。
その後ろで、歩く速度を極端に落としながら眉間に皺を寄せてカメラを睨む光。
これは何だ、どうしたらいい、と小声で呟く声は由仁子と通の耳には一切届かず、1人で慣れない操作に苦戦しているようだった。
「河童出てくるまでさーしりとりとかしようよ」
「わあ、いいですね〜、どうせならオカルトしりとりしましょう!」
「それいいね、じゃああたしから! トイレの花子さん!」
「おわりです」
「待ってまちがえた!」
前方できゃあきゃあと楽しそうに騒ぐ2人には目もくれずカメラとにらめっこを続けていた光が、あっと小さく声を漏らした。
もともとの所有者である由仁子の兄が心霊動画の撮影に使ってそのままだったのか、それとも先程由仁子が適当に操作した際にそうなったのか、赤外線モードになっていたのをようやく解除できたらしい。
「風景モード……これでいいか」
カメラを構えて顔を上げ、前方にいる由仁子と通の楽しそうな後ろ姿を一瞬捉えてから、身体の向きを変え周りの景色を動画で撮影する。
道沿いに生い茂る雑木林の向こう側に見えてきた車道、今歩いてきた方の道、と右回りに回転して、最後に川の方向を映す。
水面を見渡すようにカメラを横に動かしたとき、影のような何かが川の中を動くのを、画面の中にはっきりと捉えた。
「……いた」
光が小さく呟く。
カメラを構える手が少し震える。
ただの魚かもしれない。その可能性も頭には過りつつ、しかしあんなサイズの魚がそう簡単に水面近くに現れるだろうかという疑問も同時に浮かぶ。
ズームにして、影が現れた場所をより鮮明に映す。
先程見たものは一瞬ゆらりと動いて、そのまま消えてしまった。
また同じ場所に現れるかもしれない、という期待に賭けた光は同じ場所を画面越しに見つめたままじっと耐えた。
来い、来い、来てくれ、もう一度。
その姿を見せてくれ、一瞬でいいから。
カメラを構える手にじわりと汗が滲む。
頭にこびりつく程酷く響き続ける蝉の声も、もうすっかり離れた距離にいる由仁子と通の笑い声も、光には聞こえなくなっていた。
カメラを挟んで、世界に自分とあの影だけしかいないような感覚になって、光は無意識に身を乗り出していた。
背の低い、錆びたガードレールのような柵が頼りなく光を制止しようとするが、勿論そんなものは視界に入っていなかった。
見たい。映したい。
実在することを、この手で証明したい。
それ以外頭になかった。
だから、水面から髪の長い子供の頭のようなものが出てきたとき、光の心臓は強く脈打った。
恐怖ではなく歓喜だった。
最高潮の興奮を感じた光は——さらにその身を乗り出そうとして、柵に躓いた。
バランスを崩して川に落ちそうになったところを、すんでのところで踏ん張って、耐えた。
その手にカメラは握られていなかった。
汗で滑ったのか、単純に手を離してしまったのか、光の手から離れたカメラは、一度土手にバウンドして、それからどぼんという音と共に、川の中に沈んだ。
その音で、由仁子と通が振り返る。
「光ー? どうかしたのー!?」
光の心臓がまた大きく跳ねた。
弁償……さっき由仁子が言っていた言葉が脳裏を過ぎる。
それ以前に、借り物を壊してしまった。
そしてもちろん、せっかく撮った映像も、今ので全て台無しになった。
「……ごめん……やってしまった」
変な姿勢で顔を真っ青にした光のもとに、通の車椅子を由仁子が後ろから押す形で2人が駆け寄った。
「やってしまったって、な、何をですか?」
「カメラ……川の中に……」
「落としたの!?」
光は由仁子の顔を見ることができなくて、地面を見つめながらもう一度小さくごめんと呟いた。
通は口をあんぐりと開けて川と光を交互に見る。
後輩という立場からかそれともその内気で温和な性格からか何も言うことができず、ただおろおろとするばかりだった。
由仁子はしばらく川を覗き込んでキョロキョロとしてから、んー、と喉を鳴らして姿勢を整える。
そして、今度は地面と睨めっこを始めた光の後頭部に優しく手を添えた。
「光、大丈夫!」
「だ、大丈夫って?」
「あたしが落としたことにするから!」
「えっ」
相変わらず光の目線が下に向いているため、由仁子はその視界に入ろうとしゃがみ込む。
「にーにーはあたしに超甘いから、許してくれる! 弁償もナシだよ、だから気にしないで!」
屈託のない笑顔と、安心させようとしているのかいつもより柔らかく優しい声を向けてくる由仁子の気遣いに、光は目頭が熱くなる感覚と、より強い罪悪感を覚えた。
「……だめだ、そんなの。俺がちゃんと責任取らなきゃ」
「えー、いいって言ってるのに」
「だめだって……」
光が泣きそうな声を出すのを初めて聞いた2人は驚きつつ顔を見合わせる。
「光先輩、一度座って会議しましょう! それからどうするか考えてみても、いいと思いますよお」
「そだよ、とりあえずその変な姿勢、腰悪くするからやめよ」
由仁子に促されて柵から手を離し、光は地面にへたり込むように座る。
そしてとうとう全てを諦めるように目を閉じてしまったので、由仁子がそれに寄り添うように隣に座って、光の背中をとんとんと叩くように摩る。
「光くーん、大丈夫だよー、君はなにも悪くなーい」
「転んじゃったんですか? 落ちそうになってそれで……ってことですよね? 怪我はしてませんか?」
「怪我はしてない……転びそうになって……」
「足元見えてなかったのかい?」
「うん……カメラの画面見てたから……あっ!」
光が突然目を開けて大きな声を上げたため、由仁子がわっと驚いて背中をさする手を止めた。
「そうだ、いたんだよ、河童!」
「えっ!?」
「水面から顔出して……俺見たんだ! カメラでも撮って……撮ったんだけど……ああ」
言いながら、光はまたへなへなと力が抜けたようになり、由仁子に撫でられるのに合わせてその頭がぐらぐらと揺れる。
「今は……いないみたいですね」
先程水面から顔を覗かせた子供の頭のようなものは、もうどこにも見当たらなかった。