河童を探しに行こう5
 辺りにはもう夜の暗闇が広がっていて、蝉は鳴いていない。
光の耳に聞こえていたのは、風が不気味に木々を揺らす音と、段々と激しくなっていく由仁子の乱れた呼吸だけだった。
不思議と、川の流れの音は聞こえなくなっていた。
その身に確かに水流の圧は感じるのに、その足は流されないように確かに踏ん張っているはずなのに。
動きのない、沼の中にいるような静けさだった。
繋いでいる手に由仁子の爪が食い込んで強い痛みを感じていたが、光はそれよりも目の前のものから目が離せなくなっていた。

 水面から頭を覗かせる『河童』。
さっきよりも、ずっと近い距離に実物がいる。
ここに、実在している。

 由仁子も光もその瞬間、心臓の鼓動は今までにないほど強く早く胸を打っていたが、由仁子が感じていたのが恐怖なら、光の感情は高揚だった。
由仁子が強張ってしまった体で必死に光の手を引いているのに、光はまるでそれを拒否するかのように無意識に体に力を込める。
動きたくない、と言っているようだった。
由仁子の手が震えるのに合わせて、懐中電灯の灯りも小さくゆらゆらと揺れる。
河童は眩しそうに目を細めながら、静かに由仁子を見つめていた。
誰も動かない、動けない。
光と由仁子には数分もの間そうしていたように感じたが、実際には10秒も経っていなかっただろう。
最初に動いたのは光だった。

「……え、ちょっと」
光は、由仁子と手を繋いだまま、前に進んだ。
引っ張られるように由仁子の体が太もものあたりまで川に沈む。
「光? な、何してんの」
男女の力の差というのも勿論あるが、光と由仁子では体格差もあるため抵抗する間もなく2人の体はどんどん前に進んでいく。
抵抗とはいってもその時の由仁子はそこまで強く手を引っ張ったり振り解こうとはしなかった。
河童との距離が縮む恐怖はあったが、光が何をしているのかわからない困惑の方が強かった。
それに、この状況で光を置いて逃げることはできないという気持ちもあったのだろう。
「待ってよ、ねえ」
極度の緊張で上擦って震えた笑い声のような妙な声しか出てこないが、光の背中に向かって由仁子は必死に声をかける。
あっという間に2人ともお腹のあたりまで川に浸かってしまった。

 光と河童の距離はもうそこまで離れていなかった。
光は、目の前で静かにゆらゆらと佇む河童を見下ろす。
その視線は依然として由仁子に向けられていて、光を気にする様子はなかった。
初めて目にした未確認生物。
厳密には妖怪にカテゴライズされるのだろうが、どっちでもよかった。
フィクションでしか見たことがなかった憧れの存在が目の前にいることが光にとっては本当に嬉しかった。
懐中電灯の灯りに照らされて、海藻のような髪の毛のぬめりやぶよぶよとした土気色の皮膚の質感まで鮮明に確認できる。
どうして自分は今カメラを持っていないのだろう。
スマートフォンは鞄と共に通が1人待機している所に置いてきた。
由仁子の兄から借りた大切なカメラは水中に沈んでしまった。自分が沈めてしまった。
どうやってこの生物の存在を世に知らしめようか。
どうやってこの生物との出会いを記憶に刻もうか。
光は無意識に、由仁子と繋いでいるのとは逆の手を、河童に向けてゆっくりと伸ばしていた。
なぜかは分からないが、たまらなく愛おしい気持ちで胸がいっぱいだった。
どうしたいのか自分でもよく分からなかった。
ただ、興奮を、欲求を、抑えることができなかった。
目も合わせてくれないこの小さな化け物に、少しでいいから触れたい——


「ダメっ」
後ろから強く引っ張られて、光はバランスを崩し転ぶように水中に沈んだ。
河童に触ろうとする光の動きに気付いた由仁子が、咄嗟に力を振り絞ったのだ。
突然視界が緑色に染まり呼吸が出来なくなった光は一瞬パニックになった。

 足で川底の泥や石を掻くようにして軽くもがくと、すぐに由仁子の手が引っ張り上げるような動きをしたのに気付いて、それを支えに勢いよく水面に上がる。
ざばっ、と大きな音を立てて起き上がったが、河童がまだそこにいるのが視界の端に映った。

「ごめん、大丈夫?」
「……だ、大丈夫、げほっ」
冷たい水に頭まで浸かったからか、光の頭は冷静になっていた。
河童は驚いて逃げたりせずにそこにいる。
それも嬉しかったが、光は今の一瞬でもっと大切なものを見つけていた。

「あったよ……カメラ」
水中に沈んでもがいた時に、足に硬い感触があった。
石とは違う、少し重い感覚。
正気に返った頭で、光は自分のやるべきことを思い出した。

「取ってくる」
「えっ」
落としたものは拾わないといけない。
借りたものは返さないといけない。
河童より何よりまず先に、自分の失敗の後始末をするべきだ。
好奇心と責任感では、光は後者の方が強いようだった。

 もう一度水中に身を投じようと呼吸を整える光を由仁子が不安そうに見つめる。
それに気付いて、光は繋いでいた手をそっと離した。
「一瞬しゃがむだけだから大丈夫……ちょっと待っててな」
由仁子の返事も待たずに、光は水面にゆっくりと顔を近付ける。
水中へ意識を向ける前の一瞬、横目で河童の様子を伺ったが、依然として由仁子のことを見つめたまま動いていないようだった。

 鼻先に冷たい水が触れ、河童から水中のカメラへと意識が切り替わる。
光は少し顔を上げて一度肺の中の空気を全て吐き出し、もう一度充分な量の空気を溜め込んでから、川の中へ全身を沈めた。
視界が暗い緑色に染まる。

 日中ならまだもう少しマシだっただろうが、夜の暗さではほとんど何も見えないと言っても過言ではなかった。
それでも、場所のあたりはついている。
足先にぶつかったことを考えれば、両手で届く範囲内には必ずある。
しゃがみ込み、川底の石を弄るように手を闇雲に動かす。

 すぐ近くに何者かの気配を感じる。
もちろん、それは河童のものだろう。
気にはなったが、光はカメラを探すことだけに集中した。
早く見つけて川から上がろう。
河童がこのまま動かず無害でいるとも限らない。
由仁子の身の安全も、1人待つ通の精神状態も心配だった。河童に対する好奇心よりも今はそちらの方が大きかった。

「……!」
光の口から大きな泡が一つ漏れ出た。右手に、石とは違う感覚を見つけた。
そろそろ呼吸を止めるのにも限界が来始めていたため、少し雑に手元に手繰り寄せる。
川底の石にぶつかってガリガリと音を立てながら右手に収まったそれは、紛れもなく先程光が沈めてしまったあのカメラだった。
あった、見つけた、そう叫びたい気持ちを抑え、酸素を求めて立ち上がるため顔を上げる。
その一瞬だった。

 光の目に異様なものが映った。
それは、小さな男の子。
小学校低学年ほどだろうか。少年が、川底で仰向けに横たわっていた。
その表情はとても穏やかだった。
まるで、母親のそばで安心しきって眠る子供のような――

「光、早く!!」
頭の上から、くぐもった音がした。
由仁子の叫ぶ声だと気付いた光は、ざばっと大きな音を立てながら水中から慌てて体を起こした。
思い切り息を吸い込み、少し咳き込みながら由仁子の方へと向き直る。
「これ、ど、どうしよう、どうしたらいいの」
泣きそうな顔で光を見る由仁子の胸元に、河童がいた。
河童は、その細い腕を由仁子の背中に回して、顔は胸に埋めていた。小さな子供のように、由仁子に抱き着いているようだった。

 恐怖で硬直する由仁子。
息を乱しつつ、唖然として由仁子と河童を見つめる光。
「光……」
助けを求めるように由仁子が声を絞り出したのを聞いて我に帰り、光は急いで河童の肩を掴む。
先程まで愛おしげにそっと触れようとしていたのも忘れて、力尽くで乱雑にその体を由仁子から引き剥がそうとする。
しかし、河童は由仁子から離れなかった。
それどころか、離そうとすればするほどより強い力でしがみつこうとするのか、由仁子は苦しそうに呻き声を上げて顔を歪ませる。
どうしたらいい。
由仁子はこいつに殺されてしまうのか?
光の頭に、不安と焦燥が浮かぶ。
すでに頭の先までずぶ濡れになっているのに、背中に嫌な汗をかき始めているのがわかった。

 大切な友達が殺されるぐらいなら。
光は無意識に、カメラを持つ手に力を込めていた。
先程苦労して見つけたばかりのそれを、光はゆっくりと自分の頭上の高さまで上げる。
恐怖と苦しみで顔を歪めていた由仁子は、光が何をしようとしているのかその一瞬で察したのだろうか。
待って、だめ、と口を動かすも、その喉からはきゅう、というような音が漏れるだけだった。
河童の後頭部だけを鋭く捉えた光の視線は、由仁子の制止に気付くことはなかった。