『土曜日、キャンプに行こう!』
仕事終わりにスマートフォンの通知画面を開いて、目に飛び込んできた文章。
内容はそれだけで、何の詳細も無い。
それが送り主である従兄弟の竹を割ったような性格をそのまま表しているようで、男はくまの浮かんだ目を愛おしげに細める。
会社から出てすぐの位置で冷たい風に晒されながら、スマートフォンを見つめぎこちないにやつき顔を浮かべる男は、通行人からは不審者のように見えただろう。
「陰野さん、お疲れ様です」
「あっ……おっ、おつかれさまです」
陰野、と呼ばれた男は、同僚の女性社員の挨拶に驚き上擦った声を喉から絞り出した。
女性社員はそれをいつもの事のように愛想笑いで流し、背中を向けて歩き出す。
遠ざかるヒールの音を左耳で聞きながら、男は画面に向き直って、ふうっと白い息を吐いた。
陰野太陽。それがこの男の名前である。
太陽、というあからさまに明るく元気そうな名前をつけられておきながら、本人は至って暗く、どこまでも臆病な性格をしている。
今も、風に煽られて飛んできたビニール袋が右のすねにくしゃっとぶつかっただけで、ヒイッと大きな声をあげて飛び退く始末だった。
恥ずかしくなって口元を手で押さえながらキョロキョロと辺りを見回して、通行人が誰もこちらを見ていないのを確認する。
自分と同じように仕事帰りであろう人々は、何も気にしていないかのように無表情で通り過ぎていく。
しかしそれがまた余計に恥ずかしい。
皆気をつかって僕を見ないようにしているんだ……それってすごく滑稽だ……頭の中でそんな考えが止まらなくなり、顔がどんどん熱くなるのが分かった。
心臓がばくばくと音を立て始め、耳が痒くなるほど熱を帯びる。
逃げ道を探すかのように、縋り付くような気持ちで太陽は通話ボタンに指を触れた。
しばらくの呼び出し音。
その間、太陽の耳はどんどん熱さを増していく。
早く、早く……そう願っていると、相手が電話に応答したのか呼び出し音が止んだ。
その代わりに耳に飛び込んでくる、大きな声。
『太陽、仕事おつかれ!! どうした!?』
「あ、み、みづくん、みづくんもおつかれさま、あっあの、僕、えっと」
『落ち着け、ゆっくりでいいからな』
優しい声で諭され、太陽は心臓の鼓動が少し速度を落としたような気がした。
「あの……さ、さっきのメッセージ、みたよ」
『おお! キャンプ行こう、行くよな?』
「えっと……そのことなんだけど」
太陽がみづくん、と呼んだ通話相手は、先程のメッセージの送り主である花菱深月だった。
太陽の2歳上の従兄弟で、幼い頃から仲良くしておりほとんど兄弟のような仲である。
登山家という職業柄か、アウトドアが好きでよくこうやって外遊びの誘いをしてくる。
「夏にもハイキング一緒に行ったの、覚えてる?」
話をし始めると同時に、少し平静を取り戻した太陽は自宅のアパートに向かうため歩き出す。
『行った気がするなあ、でも冬のキャンプも楽しいぞ』
「ぼ、僕寒いの苦手だよ……どうしてわざわざ、寒いのに外で過ごすの」
『それがいいんじゃないか!!』
深月は声量がとにかく大きいので、太陽は深月と通話する時はスマートフォンを少しだけ耳から離すようにしている。
今も、突然声のボリュームを上げられたので、離していてよかったと胸を撫で下ろした。
「知ってるか太陽、冬は夏より星が綺麗に見えるんだぞ」
「そうなの? ……で、でも、風邪引いちゃうよ」
『風邪引いたら治せばいいんだ』
「う、うーん……どっちかのお家お泊まりして、ベランダから見るのじゃだめ?」
『自然の中で見ると感動もひとしおだぞ』
歩きながら、顔に容赦なく吹きつける寒風のせいで太陽は既に鼻が痛くなっていた。
今でもこんなに寒くてつらいのに、お外で寝るなんて。
どうにか暖かい室内で過ごせないか打診を試みるも、深月は全く意見を変える気配がない。
深月がそういう性格なのはとっくに分かっているが、素直にじゃあ分かったと言えるほど寒さに強くない自覚もあるため、なかなか引き下がれない。
『なあ太陽、たまには冬でもいいだろ? オレは太陽と一緒に過ごしてさ、満天の星空をふたりで見たいんだ』
「……う……」
太陽は、こういう誘い文句に弱かった。
自分を指名された上で「一緒に」やら「ふたりで」だとかそういう言葉を使われると、胸が弾んでしまう。
それを知ってか知らずか、深月はいつもそんな言葉選びをしてくる。
「……みづくん、僕がいいよって言ったら嬉しい?」
『嬉しい!』
犬のように尻尾を大きく振る31歳の従兄弟の姿が脳裏に浮かび、太陽は思い切り顔を崩すようににやついてしまった。
「……わかった……うん、行く。星空、一緒に見ようね」
『ありがとう!!』
いつもこんな風に、深月の素直な愛情表現に絆されてしまう。
生粋のインドア派で暑いのも寒いのも虫も苦手なのに、深月が必要としてくれるというだけで今回もそれらに泣かされることになりそうだと太陽は空を仰いだ。
満ちかけの大きくなった月が見える。
もしかしたらキャンプに行く土曜日には満月かもしれない。
それじゃあ、と口頭で大雑把に話をまとめて、電話を切る。
――満月も一緒に見られたら、みづくん喜ぶかな。
心の中でそんなことを呟きながら、太陽は自宅へと向かう自分の足取りが少し軽やかになったのを感じていた。
そして、土曜日。
11時に設定したアラームが鳴る。
寝坊防止のために設定しただけで、普段通り7時には起床していた太陽はとっくに朝支度を済ませていた。
深月も同様に早起きをしていたようで、8時には「楽しみだな!」とメッセージが入っていた。
少し早いけど、もう家を出てしまおう。
12時にバス停で待ち合わせをして、そこからバスに乗ってキャンプ場に向かう。着いたら早速テントを立てて――と、頭の中でスケジュールを確認しながら、普段は絶対に持つことのない大きくて重いリュックを背負う。
後ろに倒れそうになりながら、ふらふらとした足取りで玄関を出て、しっかりと戸締りをする。
無表情で淡々と向かうべき場所へとぼとぼと歩く太陽だが、外側から見るとそう見えるだけで、本人はニコニコ笑顔で踊るように歩いているつもりだった。
久しぶりにみづくんに会える。
あれだけ渋っていた真冬のキャンプも、大好きな従兄弟が自分に会いたいと言ってくれた、ただそれだけで太陽にとっては極上のご褒美となっていた。
「太陽! 久しぶり!」
約束の12時。より本格的な装備をした深月が、爽やかな笑顔で駆け寄ってきた。
予定よりだいぶ早く着いていた太陽は待っている間ベンチに座って無心でお菓子をつまんでいたため、突然耳に飛び込んできた深月の声に飛び上がった。
キュ、という音に顔を上げると、近くの街路樹の枝に小さな隼が留まっている。
「まろちゃんも一緒なんだ」
「マロンは相棒なんだ、置いてくわけないだろ」
まろちゃん及びマロンと呼ばれた隼は得意げな顔をして太陽を見下ろしている。少しプライドが高いが、とても賢く太陽にもよく懐いている。
「……まろちゃんってバス乗れるの?」
「乗るときはケージに入れるよ」
深月が慣れた手つきでリーシュと呼ばれる猛禽類用のリードを手繰り寄せ、犬猫用のものを改造したらしい移動用ケージの蓋を開けると、マロンはすんなりとその中に身を納める。
太陽がそれを覗き込んで「おりこうさん」と言うと、中からフンッと鼻を鳴らすような音が聞こえ、太陽と深月は顔を見合わせて笑った。
キャンプ場までは、何度か乗り換えをしつつ計3時間ほどバスに揺られた。
終始ニコニコと外の景色を見ていた深月と違い、太陽は途中から酔ってしまったようで、今年こそは免許をとるんだ、と呪文のように呟きながら前屈みになってビニール袋の中に顔を突っ込んでいた。
目的地に到着する頃には、もう16時手前。
ほとんど移動時間にとられてしまっていたが、深月が冬のキャンプならどうしてもここがいいと譲らない場所だったので仕方がなかった。
「……わあ」
着いてから、太陽はどうして深月がそんなに場所にこだわっていたのかをすぐに理解した。
どこまで見渡しても、広大な空にはビルひとつ映り込まない。空気は冷たいが街で吸うよりもずっと澄んでいて、鼻や肺が痛くなっても構わないと思わず深呼吸がしたくなるほどだった。
色とりどりのテントが点々と立っているのが見え、広々とした原っぱでは高校生くらいの男の子たちがキャッチボールをしていたり、大きな犬がフリスビーを追いかけ走り回っていたり、敷地の端の方に見える大きな池では釣りをしている親子連れの姿も見える。
寒空の下、人々の楽しそうな笑い声が穏やかに響いている。
季節柄、今は木々が葉を落としてしまっていたが、桜や紅葉が美しい季節に来ればどれだけ素晴らしい光景が広がっているかは想像に難くなかった。
「どうだ、スゲーいい所だろ?」
「……うん、すごい」
深月が手袋を装備してケージを開けると、マロンが飛び出してきてすぐにバサバサと翼を広げて飛び立つ。リーシュの届く範囲で風に乗るだけだが、広い空の下を飛び回れるのが嬉しいのだろうか、キューっと長くあげた鳴き声が空の下に響き渡った。
マロンが少しでも高く空を飛べるようにか、深月はリーシュの繋がった手袋側の腕を高く掲げる。
上空で何度か旋回するマロンの姿を見上げながら、太陽は思いきり息を吸った。
しばらくマロンを飛行させた後、場所を移動してテント設営を始める――といっても、太陽にはアウトドアの知識が全くないため、ほとんど全て深月に任せることになる。
場所選びの時点で太陽は深月の後ろについて行っているだけだったので、テントを立てるくらいはせめて手伝うつもりでいた。
しかし結局テントを固定するペグ(杭)を打つのに悪戦苦闘している間に、他の作業を全て済ませられていた。太陽が気付いたときにはもう2人分の椅子や、小さなテーブルまでセッティングがされてしまっていた。
「よしっ完了! ありがとな太陽!」
「ぼ、僕何もしてない……」
「ペグダウンやってくれただろ? 完璧だよ、ありがとう」
己の情けなさと深月の優しさに太陽はうう、と泣きそうな声を出してしまった。
キャンプ場全体が広くどこからでも素晴らしい景色が見えるような造りにはなっていたが、深月が選んだ場所は前方の視界に入る木立がちょうど開けたようになっていて、より空を見るのに適した場所に思えた。
テントを準備している間に日が沈み始め、オレンジ色に染まった視界の美しさに太陽はただ立ち尽くしていた。写真を撮ろうという考えも浮かばず、背後でゴソゴソとまた色々な準備をしている深月にも気付かず、しばらくの間、ただただ口をぽかんと開けたまま、空を見ていた。
「星より夕焼けの方が好きか?」
後ろから声をかけられ、ようやく深月がもう夕飯の準備にとりかかっていることに気付く。
「ごめんね、ぼーっとしちゃってた」
「ん? 手伝ってくれるのか、ありがとう」
「ううん、みづくん疲れてるだろうから、僕にやらせて」
深月が用意した道具は使い方が分からなかったが、太陽はひたすら自分が持ってきた食材で料理を作るのに徹した。
深月はアウトドアの知識には長けているが料理の腕は壊滅的なことを知っていたため、今ここで自分が働くべきだと思ったからだった。
そして何より、深月に何もかも任せてしまっている罪悪感があった。
自分はただついてきただけで、むしろ邪魔になっているのではないか?
誘われて来たはずなのに、自分はいてもいいのだろうか、と不安な気持ちが少しだけ頭をもたげていた。
道具の使い方を聞きながら、簡易的にポークソテーや付け合わせの野菜炒め、スープパスタなどを作っていると、深月はそれを眺めながら嬉しそうに「焦げていないブロッコリーを初めて見た」と言った。
少しずつ日が落ちていく。
辺りも暗くなり手元が見えづらくなってきたタイミングで、深月が吊り下げライトのスイッチを入れてくれた。
ややオレンジがかった暖かい色味の明かりが灯り、辺りを照らす。調理に使っている火の熱気や煙の匂いと合わさってなんだかあたたかい家の中にいるような気持ちになって、太陽は自分たちが今寒空の下にいるのを忘れてしまいそうになった。
ふと深月の方を見ると、マロンの嘴を撫でながら優しい笑顔で見つめ返してくれたので、太陽は少し恥ずかしくなった。
恥ずかしくなったけれど、視線は逸らさなかった。
笑顔を作るのが下手くそな自覚はあったが、ニコッとするようなイメージで口角を上げてみると、深月は目を細めてまた笑ってくれた。
「ごはん、できたよ」
出来上がった料理をステンレス製の食器に盛り付けて、小さなテーブルにぎゅうぎゅうに並べる。
もうすっかり夜の暗さになっていた。
周囲のキャンパー達も夕飯時なのか、あちらこちらからいい匂いと子供がはしゃぐような楽しそうな声が届いてくる。
アウトドア用の布を貼った椅子に座ると、思ったより腰が深く沈み込んで太陽は少しバランスを崩し、うわあっと情けない声を出してしまった。
「はは、大丈夫か?」
「う、うん、びっくりした」
「星が見やすいようにと思ってそれ持ってきたんだけどさ、後ろもたれてみ」
言われる通りに背もたれに身体を預けると、少し倒れ込んで上を向くように座ることができた。
「わあ……すごい」
星が煌々と輝き始め、夜空は既に光の粒が塗されたようになっていて太陽はため息を漏らした。
今になって気付くが、月も空に上がってきている。
その形は、前に見た時よりも綺麗な円形をしていた。
「……あ、あれって」
「ん、太陽が作ったメシもすごいぞ! うまそうだ」
大きな声に意識をとられ横を向くと、隣に座った深月は星空よりももうすっかり食い気モードに入ってしまったようで、ステンレスのフォークを手に持ってそわそわしている。
太陽がぱちんと両手のひらを合わせていただきます、と呟くと、それを合図にしたように深月はポークソテーに齧り付いた。
「太陽はすごいな、こんな美味いメシが作れるんだな」
「焼いたり、煮たり、しただけだよ」
「オレが作ると焦げるんだ、汁も無くなるし」
スープパスタを水のようにずるずると啜りながら、深月はニコニコと嬉しそうに話す。
その横ではマロンも何か赤い塊のようなものを啄んでいる。それが深月が用意してきたであろう猛禽類用の餌だと気付いて、太陽はそっと視線を外した。
「そうだ、オレがコーヒー淹れてやる」
「あれ……淹れ方わからないって前、言ってなかった?」
夕飯を食べ終わり後片付けを始めると、深月が得意げにリュックからドリッパーや紙のフィルターをゴソゴソと出してきた。
「友達から教えてもらったんだ! コーヒー好きなヤツがいてさ、ちゃんとメモしたし動画にも撮った」
先程から色んなものを用意してくるので、あの中にどれだけ物が入っているんだろうと太陽は不思議に思った。
食材や自分用の寝具、着替え、衛生用品などを詰めただけでパンパンになった自分の鞄とは素材から何から全て違うのだろうか。
いやきっと、何をどのように詰めればどれだけ入るかということも分かっていて、実践しているのだ。
深月が自分で経験して手に入れた、生きた知識で。
深月はいつも、太陽の知らない道具を持ってきたり、太陽の知らないことを慣れた手つきでこなしたり、太陽の知らない知識を持っている友達の話をすることが多い。
行動力があり、好奇心旺盛で人脈の広い深月だからこそだと分かってはいるが、太陽は羨ましさと寂しさを感じている自分に気付いていた。
臆病で内気で引っ込み思案な自分とは大違いだ。
たった2歳しか離れていないのに、子供の頃からずっと仲良くしていたのに、深月は自分の知らない人生を生きている。
自分は普通の会社でサラリーマンをしているのに、深月は登山家だ。海外に行くこともあればメディアの取材だってしょっちゅう受けている。
いかにも"甘いマスクの爽やかな好青年"といった風貌もあってか、スポンサーどころか民間のファンクラブのようなものまであると聞いたことがある。
副業としてアウトドア用品店でも働いているようだが、そもそも副業をやる体力があることすら羨ましい。
自分なんて毎日会社から帰ってくるだけでヘロヘロだし、繁忙期なんてこのまま疲れて死んでしまうのではないかといつも不安になる。
日常的に遊びに行くような親しい友達もほとんどいない。
深月は、自分のような思いをしたことがあるだろうか。ふとそんなことを思った。
今日が初めてではない。子供の頃から何度か感じたことがある。大人になって、その気持ちは少しずつ強くなる。
羨ましかった。だけど、嫌いになんてなれない。
深月は優しい。いくつになっても自分のことを可愛がってくれる。
どんなに自分が卑屈で暗くて失敗ばかりでも、一度も否定されたことはない。いつだって明るい笑顔を向けてくれる。
お前なら大丈夫だとか、オレがついてるだとか、必ずそう言ってくれる。どんなに疲れていようが、誰かを笑顔にすることを最優先にできる。
自分だったら、きっとそんなことはできない。
自分は深月にはなれない。
全て、諦めていた。
「……できてるかな?」
ドリッパーから滴るコーヒーが溜まっていくサーバーを見つめて、深月が呟く。
「オレが淹れるコーヒーって、すげー不味いんだってさ。"ザツミ"がするとかなんとかって、よくわかんねーけど」
不味いらしいと言いながら、その声には悲壮感ひとつこもっていない。
まるで他人事のように話すその姿が幼い子供のようにも見えて、太陽は先程まで頭の中を覆い始めていた暗い雲が晴れるように急に微笑ましい気持ちになった。
「もし雑味があっても、僕ミルクとお砂糖いっぱい入れるし、誤魔化せるから大丈夫だよ」
「だよな! 持ってきたぞ、ちゃんと」
深月が顔を綻ばせながらまたリュックに手を突っ込んで、コーヒー用のミルクポーションやスティックの砂糖などをゴロゴロと取り出して並べてきたので、今度こそ太陽は可笑しくなって、豚のように鼻を鳴らして吹き出してしまった。
「みづくん、四次元ポケットみたい、その鞄」
「太陽が欲しいかなあと思って、がんばって色々詰め込んできたんだ……」
太陽が笑っているのが嬉しいかのように深月は満足げに笑みを浮かべる。
早く落ち着いて一緒にコーヒーが飲みたいな。
そう思った太陽は手早く後片付けを済ませることにした。炊事棟の水場に向かおうとすると深月が手伝うと言ってきたが、コーヒーを見ていてと促すと子供のように頷いて、サーバーにコーヒーが溜まっていくのを見つめ始めるのがまた可笑しかった。
太陽が食器や鍋を洗って戻ってくると、ホーロー製のふたつのマグカップには既にコーヒーがなみなみと注がれていた。
心なしか、やけに色が薄い。お湯の量を測らなかったのだろうか。
深月の顔を見るととても誇らしげな顔をしていたので、太陽はそれを口に出さず「ありがとう」とだけ言った。
「いい匂いだろ! いくらでも淹れてやるからたくさん飲めよ」
「うん、ちょっと甘くしてもいい?」
「もちろんだ!」
一応確認をとってから、太陽はミルクポーションを3つとスティックの砂糖を5本入れ、持参してきた練乳のチューブもひと回しほど入れた。
ふう、と一息ついて、椅子に腰掛ける。
今度は、バランスを崩さず情けない声も出さなかった。
夕飯で満たされたお腹をさすりながら、青色のマグカップを顔に近づけるとコーヒーの独特な匂いが鼻を抜けていく。
湯気が顔に当たって暖かくなるのが気持ち良くて、太陽はしばらくコーヒーの熱気で顔を蒸していた。
ちらりと横を見ると、深月が何度も黄色いマグカップを顔に近付けては目をぎゅっと瞑り、離す……を繰り返しているのが見えた。
「熱い?」
「まだ熱い!」
深月が猫舌なのを知っていたので、ちょっと可哀想で、でもそれが可愛くて、太陽はまた歪んだにやけ顔を浮かべる。
にやにやした顔のまま自分のコーヒーをゆっくり啜ると、甘さの中に微かに妙な酸っぱさがあるような、なんとも言えない味が口に広がった。
……美味しいとは、言い難い。
だけど、みづくんらしいな、と太陽は思った。
深月本人は相変わらず自分の淹れたコーヒーを飲むこともできないまま、おそるおそる舌をちろっと出しては引っ込めている。
ふと、空を見る。
夜も更けてきて、先程より暗く深い青と、それを埋め尽くさんほどの光の粒が視界いっぱいに広がっている。
所々に一回り大きな光の粒が瞬いているのが分かる。
頬を刺す冷たい風と合わさって、空気そのものが煌めいているようにすら感じた。
わあ、と自然に声が漏れた。厚着の下でふわっと鳥肌が立つのを感じたが、もちろん寒さが理由ではなかった。
視界の中心の辺りだけ開けたようになっている木立がフレームのように星空を縁取っていて、深月がこの場所を選んだ理由を改めて理解した。
そして、夜空の中煌々と光を放っているのは星だけではなかった。
先程も思ったが、やっぱりそうだ。
「みづくん、あれ満月だよ」
「ん? おお!」
深月の大きな声が聞こえたかと思うと、突然辺りがふっと暗くなる。
振り返って見ると、深月が吊り下げライトのスイッチを切ったようだった。
「月明かりだけでも充分だな」
そう言ってもう一度腰掛け、マグカップを手に取り思い切りずずっと啜る。あっと思って深月の顔を見ると、きょとんとした顔で見つめ返された。
「熱くないの?」
「あ……そうだった! 熱く……ない」
はっとした顔でマグカップに視線を向ける深月。しばらくそうしていたかと思うと、またなんでもないような顔をして月を見上げ、水でも飲むかのようにぐびぐびと喉を鳴らしながらコーヒーを飲み干した。
「綺麗だね」
「そうだな、いい景色だ」
「みづくんは、どれが何の星座かとか、わかるの?」
「んー、何もわからない」
そう言いながら、深月はまたドリッパーにフィルターと粉をセットし、とっくに冷えているはずのお湯……水を、鍋から適当に注ぐ。
「あれはわかるぞ。月だ。今日は満月だ」
「ふふ、それは僕もわかるよ」
「へへへ、だよな。太陽の方がオレより頭いいんだからさ、オレが星座とか分かるわけないんだ」
深月に屈託のない笑顔を向けられ、太陽は困ったような切ないような複雑な気持ちになった。
「そんなこと……ぼ、僕は……知ってたとしても、図鑑とか教科書とか、ネットでしか、知らない」
「充分だろ」
「ちがう……みづくんはさ、自分の目で見て、自分で経験して、なんでも知ってるから」
急に、息が詰まったように感じた。
もともと喋るのは苦手だから、吃るのはしょっちゅうだ。声も小さいし、うまく出ないときもある。
だけど今は、喉よりもっと下の、胸の辺りがつっかえているような感覚があった。
「ぼ、僕なんかが知ってることより、みづくんが知ってることの方が、ずっと……価値があるから」
絞るようにその言葉を吐き出すと、突然目尻がじんわりと熱を帯びた。
深月の顔を見ていられなくなって、太陽はまだ半分ほど残っているマグカップの中に視線を移す。
湯気で温まったせいで鼻水が出てきたのかと思ったが、コーヒーだった甘い飲み物はもうとっくにぬるくなっていた。
深月は、しばらく何も答えなかった。
太陽が鼻を啜る音と、遠くで犬が吠えている声だけが響いていた。
「……オレはさ、いつも焦げた肉ばっか食ってんだ」
いきなり何を言い出すのかと、太陽は少し目線を上げる。
「水加減もわかんなくて米はいつも硬いし、その上に焦げた肉乗せただけのメシを毎日食ってる。友達にはドン引きされてる。キャンプとか山じゃあ大体誰かにメシ作ってもらってるか、買ってきたもん食ってる」
「?」
「あと、オレは免許なんか絶対取れない。すげー物忘れ激しいから、危ないし取ろうと思ったこともない。遊びに行く時は誰かに車出してもらってるし、太陽と遊ぶ時はバスに頼るしかできない。いつもバス酔いさせてごめんな」
「い、いいよ」
突然よくわからないことを語り出した深月の顔を、太陽は恐る恐る見上げる。
「太陽……オレはさ、自分のことすごいだなんて思ったことないんだ。バカだから、周りに助けられてばっかでさ。登山だって、なんで生きて帰って来られてるのか自分でもいつも不思議でさ……多分それは、マロンのおかげなんだけど」
深月はちらりと振り返って、テントの中でストーブに当たり気持ちよさそうに目を閉じているマロンを見やる。
「オレからしたら、いつも色んなこと考えてて、慎重に行動できる太陽の方がすげーって思う」
「そんな、僕はただ……臆病なだけだよ」
「そういう奴の方が生存率は高いんだぞ」
ふふっと優しい笑みを向けられ、太陽は少しドキリとした。
「なあ太陽、なんで自分のこととか、自分が持ってるもののこと、価値がないなんて思うんだ」
「だって……僕だから」
自分でそう言って、太陽はまた泣きそうになった。
どうして僕はダメなんだろう。どうして僕は僕なんだろう。ずっと考えてきたことだった。
深月にはきっと、理解してもらえない感情。
だけど深月は優しいから、お前はダメなんかじゃないぞ、とまた檄を飛ばしてくれるのだろう。
そう思っていた。
一種の甘えのような感情だというのは分かっていたが、それを期待してしまっている自覚もあった。
「……オレ、なんか泣きそうかも」
初めて聞いた深月の言葉。
太陽は驚いて、えっと声を漏らしつつ深月の顔を覗き込んでしまった。
赤ん坊の頃から家族ぐるみで親交があるが、深月が泣いている姿など一度も見たことがなかった。
眉は八の字になり視線は下がり、いつもニッと力強く笑っていた口元も、今はただ力なくふにゃりとしている。
「太陽の全部がダメなら、オレだって全部ダメだ」
「そ、そんなことないよ、みづくんは僕とはちがう」
「違くない。いや違う。オレはダメだけど太陽はダメじゃない」
「え?」
「……わからなくなった……なんて言ったんだ今」
太陽はただただ困惑した。深月はショックで変になってしまったのだろうか。
何も言えずその泣きそうな顔を見つめていると、深月は観念したように首を振った。
「オレが言いたいのはさ、ただ太陽のことが大好きなんだ」
「え……」
「太陽もオレが好きだろ。それだけじゃないか……ふたりでいたら楽しいし、オレは太陽を尊敬してるし、太陽もオレをすごいって思ってくれてる。それだけでいたいんだ」
深月の声が少し震えているような気がした。
「一緒にいるせいで……もし太陽が自分のことダメだって思ってしまってるなら、オレはどうしたらいいんだろう」
「どうもしなくていいよ……みづくんはみづくんのままでいて」
「オレは同じことをお前に思ってるんだ、太陽」
「……」
何も返せなかった。
また喉より下、胸のあたりに何かが膨らんでつっかえる感覚がした。
「どうしたら伝わるかな」
声を出したいが、出せない。声以前に言葉が出てこない。
「オレが太陽のことどれだけ大好きかちゃんと伝われば、納得してくれるか」
「……う……」
喉が潰れたような音しか出ない。
言いたいことはあるのに、言葉として固まらない。
「じゃあ……太陽のすごいとこ、朝まで100個言おうか!」
「……え」
はた、と時が止まったような感覚がした。
「100じゃ足りないか、1000でもいいけど途中で何言ったか忘れそうだな、じゃあ今度登る山の頂上に太陽の旗でも立ててきてやる! 持って帰らないと怒られるけど」
「……何、え?」
「それともオレの友達みんなに太陽のこと紹介しようか! オレが世界で一番尊敬してて、世界一大好きですっげー優しくて可愛い弟なんだって」
「みづくん待って、そんなことしないで、は、恥ずかしい」
深月が突然エンジンでもかかったかのように元気な声で捲し立てるので、太陽はいつも半開きのとろんとした目を、この時だけわっと見開いてしまった。
「まだまだ思いつくぞ」
「みんなに紹介だけは、しないで」
「あはは、わかった」
深月はすっと立ち上がって得意げに目を閉じ、腕組みをする。何か考えているようだ。
その表情は明るく、さっきまで力なく震わせていた唇もニッコリと口角を持ち上げている。
「……太陽、オレは登山家だ」
「……? うん」
「登山家はな、どんな高いところにだって行けるんだ」
そう言って、深月は夜空に顔を向ける。
そして、ピッと人差し指を立て、燦然と輝く満月を指し示す。
「月にだって」
「……え!」
「お前のためなら楽勝だぞ」
「ほんとに言ってる?」
太陽が深月の顔を覗き込むように首を傾げると、深月はにやりと含み笑いを見せた。
「転職しようか、宇宙飛行士に」
「……」
呆気に取られて、口が半開きになる。
何を言うのかと思ったら。
僕のために月に行くって?
太陽はどうしてそこまで、と一瞬思ったが、深月が宇宙服を着ている姿を想像してみると、なんだか可愛くて面白くなった。
そして、ぷひひっと鼻を鳴らしながら笑って、自分を好きだと証明するためだけにそこまで考える深月の気持ちを、嬉しく思った。
「僕のためにそんなことまでするの」
「もちろん。月の石でもお土産に持って帰ってくるよ」
「それ、ち、地球的には大丈夫なのかな?」
「うーん……怒られるかな……じゃあ、乗るロケットに太陽号って名前でもつけようか」
「つ、月に行くのに……ややこしいよ」
深月が吹き出したようにあははと笑って、太陽もそれを見てぐひっと下手くそな笑い声を上げた。
自分の存在、知識、経験が無価値だどうだとか、自分は深月のようになれないのかとか、今この瞬間だけは心底どうでもいいやと、太陽は笑いながら思った。
そういうことを言うと深月が悲しむ……というのはもちろんあったが、それよりただ、楽しかった。
深月が言ったように。
楽しくて、大好きで、お互いをすごいと思う。
今はそれ以外考える必要などないと、自分の心から湧き上がる素直な気持ちがそう言っていた。
この楽しさを、幸せを、心から感じ切らないといやだ。落ち込んだりして、もったいないこと考えちゃったな。
普段あまり考えることのないそんな思いが頭を過りながら、月から帰還して地球の重力に負ける自分の話を悔しそうにする深月を見て、太陽はお腹が痛くなるほど笑った。
マグカップをもう一度水場に洗いに行って、椅子やテーブルを片付けてくれていた深月に礼を言う。
テントの中に入って、真ん中に陣取っていたマロンの機嫌をとりつつスペースを開けてもらい、寝具を空気で膨らませながら、他愛もない会話をする。
また明日もバスで3時間か、次はサイクリングに行こう、いや次はインドア遊びにしよう……等、テントの中の暖かさで眠くなった頭と口で、2人はふわふわと話し続ける。
言葉の途中あくびが混じり、それを見ていた方にあくびが移り、それを見てまたあくびを誘われ……。
コーヒーを飲んでカフェインをとったはずだったのに、朝までぐっすりと快眠してしまった。
寝覚めはとても爽やかだった。
朝起きて、同じタイミングで目覚めた深月に「おはよう」と優しく微笑まれて、太陽は嬉しくなってまだ夢の中にいるような気さえした。
テントを片付けるのもほとんど深月任せでまた役に立てなかったと少し申し訳なく思ったが、太陽はもう落ち込んだり、自分を責めたりしなかった。
3時間に及ぶバスの揺れだって、全く苦に感じなかった。
何もかもが、温かく満たされている気分だった。
自分の隣には深月がいて、いつだって自分を愛してくれているから。
物理的に離れていたとしても、それは変わらない。
たとえ深月がどんな危険な山や、月にさえ行ってしまったとしても、深月は自分のことをずっと想っていてくれる。
自分だって、深月のことを地球からずっと愛している。
そして、深月は必ず自分の隣に帰ってくる。
その限りない愛を証明するために。
帰り際、「バイバイまたね」と言うかわりに、太陽は深月に「ありがとう、嬉しかった」と告げた。
深月はただ明るい笑顔で「うん」と言ってくれた。
自分は最後にまたぎこちなく下手くそで歪な笑顔を返してしまっていただろうか、と太陽は自分の家の洗面所で鏡を見ながら考えた。
もしそうだったとしても、今は恥ずかしくない。
深月はきっと、全部分かってくれている。