「休日に私服で会うのとかさー意外と初めてじゃん」
由仁子は渋い顔をしながら紙パックの苺ミルクをストローで吸って、ぽつりと呟く。
今日という日が楽しみなあまり集合時間より30分早く着いていたらしいのだが、
光と通が到着する頃には夏の暑さとけたたましい蝉の声にうんざりしたのか、声のトーンが普段より落ちていた。
「そういえばそうですね〜、いつも学校でしかお会いしてなかったですもんね」
「由仁子……一応フィールドワークなんだから動きやすい格好で来いって話したろ?」
「あたしなりの動きやすい格好なんですけど! これがデート用の勝負服に見える!? スニーカーだし!」
「でも汚したくないだろその服」
「う……」
由仁子は履いているショートパンツを叩きながら光に抗議したが、光はそれを一蹴して荷物の確認を始める。
「懐中電灯、ノート、ペン、しっかり持ってきた。河童の生態なんかも色々調べてノートにメモしておいたよ。2人はどうだ?」
「おやつと飴ちゃんがたくさんありますよ〜、腹持ちのいいどら焼きなんかも……」
「口の水分持ってかれちゃうよ! あたしちゃんとにーにーからカメラと予備バッテリー借りてきたよ」
由仁子が持ってきた機材はやけに本格的で、光と通の緊張感をほんの少しだけ駆り立てた。
由仁子の兄はその道ではそこそこ有名な廃墟・心霊スポット探索系の配信者である。
独特な訛りの強い喋りが人気を博し、チャンネル登録者数は17万人をゆうに超えている(由仁子は度々「あたしの家さ、銀の盾あるんだよ」と2人に自慢していた)。
そして、機材一式はその兄のツテで借りてきたようだった。
「わあ、これ……! こんな高そうなカメラ、いいんですか」
「壊したら弁償とか……ないよな?」
「壊したら弁償って、言われたよ」
屈託のない笑顔を向けてくる由仁子を見て、光は顔を引き攣らせた。
「……まあ、慎重にやろう。荷物の確認も済んだし、どこから観察するか場所取りでもしようか」
季節は夏、周りにはコンビニや民家、小さな弁当屋ばかりで太陽光を遮るほどの大きな建物など無く、その日差しは容赦なく照りつけてくる。
比良川は三人の立っている道が橋のようになり、その下をざざあっと音を立てながら流れている。
先日大雨が降ったこともあり、少し水位は上がっている。
長時間の観測活動になることも予測されるため、なるべく日陰が多く、涼しく、見晴らしのいいポイントを探すことになった。
キョロキョロと辺りを見回しながら、元気よくスキップをするように駆け出す由仁子。
そのスニーカーの足音がパタパタと響く中に、通の車椅子が道の小さな凹凸によって僅かに揺れる音が度々混じる。
比良川は、せせらぎと呼ぶには少し激しい水音を立てながら足下を流れ続けている。
そして、それらを掻き消さんばかりの蝉の大合唱。
ハンドリムをゆっくり回して進む通に合わせて最後尾を歩く光の耳に、そのどれとも違う音がかすかに届いた。
「……誰か、歌ってるのか?」
光が呟いた言葉に、通がぽかんとした顔をして振り向く。
「へ? 何か聞こえました?」
「うん……女の人かな? 何か歌ってる……みたいな声が聞こえた」
「由仁子先輩じゃないですか? 先輩いまご機嫌そうだし、何か口ずさんでるのかもですよ」
二人の視線が先を進む由仁子の背中に同時に向けられるが、その足取りは思ったよりも軽くいつの間にやらもう声も届かないような距離が生じてしまっていた。
「由仁子だとしたら、どんなバカでかい声で歌ってるんだか。まあ、由仁子ならあり得るけど」
「ふふふっ……ごほん、えっと、歌ってどんな感じでした? もしかしたらどこかのお宅のテレビとかかも」
「うーん……童謡?みたいな感じだった。お母さんが子供に聴かせるような」
「お昼下がりですし、子供のお昼寝のために、どこかの親御さんが流してるのかもですね」
意外と冷静に分析する通の言葉に、光はすんなり納得してしまった。
なんだそういうことか、と口には出さないものの静かに頷く光を見て、通も同じように頷いた。
と、その時。
「おーい! いい感じの木陰発見したぞー!川も見渡せるいい場所だぞ〜!!」
蝉の声や川の音に負けない、いや圧勝していると言ってもいいほどの声量の由仁子の呼び掛けが、光と通の心臓を跳ね上げさせた。
「子供を寝かしつける歌だとしたら、今ので台無しだな」
光は呆れた顔で言いながら、ふふふと笑う通に「行こう」と顎でしゃくって促した。
由仁子が見つけた場所は道向かいに雑木林があり、陰もできていてそこだけ気温が下がったように涼しくなっていた。
比良川もある程度上から見渡すことができ、長時間待機しているには絶好の場所だった。
「どう!? 涼しいっしょ!? 蝉うるさいけど!」
「うん、ここならいい感じだ。お手柄だな由仁子」
上体を逸らして得意げな顔をする由仁子を横目に、光は背負っていた鞄からアウトドア用の小さな椅子を2つ取り出して広げる。
「なにこれ! こんなの用意してたの!? ありがとう!」
目を丸くしながらも遠慮のないスピードでとすんと腰を下ろす由仁子を見て光はふっと笑う。
光も腰を下ろしたところで、今度は通が鞄の中からごそごそと飴を取り出して、光と由仁子にそれぞれメロン味とイチゴ味を配った。
「みんなでのんびり、楽しく河童くんを待ちましょ〜」
「ああ、一応目撃証言が多いのは昼下がりから夕方辺りだから、少し待つことになるかもな」
「まあ気負わずいこ! あ、そうだ、あたしちょっとカメラの練習しときたい!」
由仁子が、全身パステルカラーで固めた服装には似つかわしくない、兄から譲り受けたらしい無骨な黒いバッグを漁ってカメラを取り出した。
成人男性が持てば片手に収まる程度のサイズのビデオカメラだが、小柄な由仁子の手には少し大きく、見ている側には不安な印象を与える。
「ストラップとか付いてないのか?」
「んーなんかね、元からついてたのがかわいくなかったから、あたしが持ってたリボンと替えようとして外したんだけど……付け方わかんなくなっちゃった」
「……」
閉口して地面を見つめる光、不安そうな顔で先輩2人を交互に見る通をよそに、由仁子はカメラを構えて適当にボタンをぽちぽちと押しながら振り回していた。
「ん〜……これさあ、写真って撮れないのかな?」
「動画用じゃないのか」
「わかんない……ま、写真はスマホで撮ればいっか。 あ、そうそうあたし良いこと考えてきたんだけどさ」
由仁子が自分のスマートフォンを探してキョロキョロしだし、元々不安定だった手元がさらにふわふわと危なげな動きをし始めたため、光はそっとビデオカメラをその手から取り上げた。
「あたしらのちゃんとした活動って今日が初めてじゃん? だからさ、あたしら自身の写真も撮って思い出残そうよ!」
「わあ〜それ素敵ですねえ、僕も賛成です!」
「心霊写真も撮れるかもだし?」
「ああ……なるほど」
あった!と大声を上げたかと思うと、由仁子は自分のお尻のポケットからピンク色のカバーのついたスマートフォンを取り出して、勢いよく立ち上がる。
「早速一枚目撮るね」
インカメラに切り替わった画面は、笑顔でピースをする由仁子の顔と、座ったままの光、通を俯瞰のアングルで映している。
由仁子の親指が撮影ボタンに触れるその瞬間、奥側にいた通の、さらにその奥に、白い脚が映り込んだ。
「え?」
カシャ、という音と同時に固まる由仁子。
通も画面越しに"それ"を視認したようで、勢いよく振り返る。
二人の様子にただならぬものを感じた光も通の様子を確認しようと振り返った。
そこには、女がいた。
何の変哲もない、どこにでもいるような、三十代半ばほどの女。
丸みを帯びたショートカットのヘアスタイルに、少しふっくらとした体型。
エスニック柄のような不思議な模様の入った、膝下丈のゆるっとしたシルエットのパンツから、サンダルを履いた白い脚が覗いている。
その風貌はどことなく、誰のというわけではないが『母親』というイメージを想起させた。
「こんにちは」
女は柔らかく微笑んで、鈴のような声色で3人に話しかけてきた。
どこにも、何も危険を感じる要素は無い。
平凡な出立ちの女性が、友好的な態度で挨拶をしてくれている。
ただそれだけの出来事なのに、なぜだか由仁子も、光も、通も、誰も動くことができなかった。
挨拶を返すことさえも、喉が詰まってしまったように、声を出すことができなかった。
「学生さんたち、川を見にきたの? 暑いから、熱中症とか気を付けてね」
女は穏やかな表情のまま、それだけを告げて、固まる3人の横を通り過ぎる。
高さのないサンダルの靴音がからからと遠ざかっていく。
女が現れた瞬間止まってしまったように感じた川の音も、蝉の声も、女が遠ざかって行くにつれて段々と耳に届く音量が上がっていく。
その中に、先ほど聞いたのと同じかすかな歌声が混じっていたのを、光は聞き逃さなかった。
「……あの人だ」
「え?」
「さっき歌ってたの、あの人だ」
光が絞り出すように声を発したのを皮切りに、由仁子と通も少しずつ、ぎこちない動きを取れるようになっていく。
「う、歌ってましたか?」
「あたし聞こえなかった、けど……」
3人は同時に女の歩いて行った方向に顔を向けた。
まだその後ろ姿が小さく見え、通は目を伏せて少し肩を震わせた。
「ぼ、僕、なんか変な感じ……です、なんでかわかんないけど……なんでかな……」
「大丈夫、通、あたしもだよ」
由仁子が、心配そうに駆け寄って通の頭をぎゅっと抱きしめる。
光は、自分の震える手をぐっと握り締めながら、女の小さな後ろ姿を視界から消えるまで目で追い続けていた。