河童はカメラが落ちた音に驚いて逃げてしまったのだろうか。
光のため息と共に少しだけ落胆の空気が流れかけたのを、由仁子が大きな声で掻き消す。
「でもあたしら全然気付かなかったよー、見つけたのすごいじゃん! 光、超お手柄だよ!」
至近距離で拡声器を通したかのような声量の励ましを受けて、光は片目を強く瞑る。
「だけど……証拠が無い」
「僕たちは光先輩を信じますよ」
「通と由仁子が信じてくれても、新聞部に売るって話は? 記事にしてもらいたかったら、証拠の一つでも無いと取り合ってもらえない」
「あ……そか、そしたらオカ研の活動広められない、部室ももらえない?」
「えーっ、そんな……」
由仁子は相変わらずあっけらかんとした顔をしているが、通は目に見えてしょんぼりとしてしまった。
冷房の効いた部屋で占いをするのがよほど楽しみだったのだろうか。眉を八の字にして、大きな目をぱちぱちと瞬かせている。
かわいい後輩の泣きそうな表情を見て、光の胸はさらに痛んだ。
自分自身も部室があればより快適に過ごせると思っているし、未確認生物の存在をこの手で立証したいという欲求も強くあったのは確かである。
しかし、大切な仲間である由仁子と通を喜ばせたいという気持ちも、光の中には少なからずあったのだ。
今、通が悲しい顔をしているのは自分のせいだ。
由仁子が気をつかって本心を隠して言葉を選んでいるのも自分のせいだ。
光はそう考えながらもう一度比良川に目を向けた。
「カメラ、回収しないとだ」
ずっと背中に手を添えてくれている由仁子を驚かせないようにゆっくり立ち上がった光は、それだけ言って先程自分が躓いた柵を乗り越えた。
「え、川入るの?」
「うん」
「そんな、結構深さありますから、危ないですよ! そろそろ陽も落ちてきましたし、増水もしてるみたいだし……」
「大丈夫」
屈んで足を伸ばし、急勾配になっている土手を、滑り落ちないように草を掴みながらゆっくり降りて行く。
通が後ろで何か言い続けているが、光はそれを無視した。
服が泥で汚れるのもお構いなしにずるずると降りて行き、ようやく平坦な地面に足がつく。
服や体に付いた草や泥をぱんぱんと叩いて払いながら、カメラが落ちたあたりの水面を見る。
強い西陽をキラキラと反射させるその様は美しかったが、陽が沈み始めた影響で周辺の木や建物が黒く染まりつつある姿との対比が、どこか禍々しかった。
気が付けば、あれだけ騒々しかった蝉たちの声も切ないヒグラシの声に変わっている。
入れば深さはどのぐらいだろうか。
歩ける程度の深さと水流であればいいが、緑色に濁った水面は目測での予想など通用しない不気味さも感じさせた。
そして、この川の中には何かがいる。
入れば、そいつと同じ場所に身を置くことになる。
その瞬間光が感じていた感情はやはり、恐怖ではなく興奮だった。
「あ〜!! あぶない!!」
突然、後ろから大きな声がしたと思うと、光は振り返る間もなく大きな衝撃と共によろめいた。
泥でぐちゃぐちゃになった白いスニーカーが脱げて転がるのが視界の端に映る。
「由仁子?」
振り向くと、由仁子が尻餅をついて空を仰いでいた。
パステルカラーの服が、草や泥によって緑や茶色、黒に染まりかなり汚れてしまっている。
「いたぁい」
「大丈夫か? 落ちた……?」
「光みたいに上手に降りられなかった!」
光が手を差し出して助け起こすと由仁子は勢いよく立ち上がったが、スニーカーが脱げてしまっていたため白い靴下にもぐちゃりと泥が付いた。
「由仁子せんぱーい、大丈夫ですかー…」
上から心配そうに声をかける通にニコニコと手を振る由仁子は、自分が泥まみれになっていることなど一切気にしていない様子だった。
転がる泥付きスニーカーを光が拾ってきて、由仁子の足元に置くと、由仁子は光の体を勝手に支えにしてそれに強引に足を捩じ込む。
「1人で川入るの危ないよ」
「まさか一緒に入るつもりで来たのか?」
「んーん、汚いから入りたくない」
光は由仁子の言っていることが理解できなかった。
「カメラどこ落ちたかわかんないけどさー、柵のとこから落ちたんなら結構手前の方でしょ?」
「うん」
「手繋いでてあげる、あたし命綱ね」
「ああ……」
一緒に川に入るのは最終手段だから、と念を押されたが、光は少し嬉しい気持ちになった。
もちろん罪悪感の方が強かったが、普段は呆れるところもあった由仁子の清々しいほどの正直さと行動力に、今は感動まで覚えるようだった。
「ありがとう、もし由仁子が怪我しそうになったら、俺のこと見捨てていいから」
「オッケー」
OKなのか、と思いつつ、光は一度通の方に目をやってから、比良川に向き直った。
右手に由仁子の手が触れてきたのをしっかりと握り返しながら、片足を川の中に入れる。
少しずつ探るように足を前に進めると、思ったよりも深い。
あっという間に膝まで沈んで、川底のぬかるみを靴越しに確認する。
様々な大きさの石が泥に混じって、足の裏をゴツゴツと刺激してくる。
水流は思っていたほど強くはなく、歩くことはできそうだと判断してから、体全体を水の中に放り込んだ。
突然カチッと音がして視界が明るくなったので振り返ると、由仁子が繋いでいるのと反対の手で小型の懐中電灯を持って、光の前方を照らしている。
「光の鞄から勝手に取ってきた」
「持ってきてたの忘れてたよ……サンキュー」
そうは言いつつ探し物は濁った水中にあるので特にその灯りに意味は無かったが、命綱になってくれる、前方を照らしてくれる友人がそばについていることが光にとって何より心強かった。
沈んだカメラを見つけて回収できたところで、おそらくデータはもう駄目になってしまっているだろう。
それでも、光は自分の失態を自分自身で少しでもカバーしたかった。最後まで責任を取りたかった。
由仁子の兄がわざわざ自分たちを信頼して大切な機材を貸してくれたのに、「失くしましたごめんなさい」で済ませたくなかった。
それに、泥に塗れたカメラを見せて「河童に驚いて落としてしまった」と言えば、もしかしたら新聞部も軽いネタ程度には取り上げてくれるかもしれない。
甘い考えだというのは分かっていた。
光自身、少しヤケになっている自覚はあった。
体勢を崩さないよう片足で踏ん張りながら、もう片方の足で川底の泥をゆっくり掻き回すようにしてカメラの感触を探す。
少しずつ少しずつ、移動するたびに体は水中に沈んでいく。気付いた頃には腰の辺りまですっかり浸かってしまっていた。
カメラは見つからない。水流で流されてしまったのだろうか?
ふと振り返ると、手を繋ぐ光の動きに合わせて一緒に動くことになるせいか、由仁子の足が膝の辺りまで川の中に浸かっていた。
「あ……」
「大丈夫、まだセーフ」
由仁子がニッと笑いながら懐中電灯を持つ方の手をひらひらとさせたため、強い灯りがチカチカと激しく動き、光は目を細める。
前に向き直して、再び足で地面を弄るようにカメラを探す。
足先に触れる硬い感触はどれも、石ばかりだった。
陽はすっかり落ちて、辺りは暗闇に包まれ始める。
とはいっても、街灯はあるし住宅街も近いので多少の明るさと安心感はあったが、それでも焦りは生じる。
上の方で1人で待ち続ける通はどれほど心細いだろうか。
車椅子でこんな所にまで来させるわけにはいかないから、待っていてもらうのが最適解ではあるだろう。
光としては自分1人でカメラを探すつもりだったので、通は由仁子に任せたつもりだった。
だけど由仁子が一緒に来てくれたことを嬉しく思ったのも事実だったから、複雑な気持ちでいた。
時折由仁子が振り返って通と合図を送り合っているようだから、無事は確認できている。
早く見つけよう。
自分にできることはそれだけだ。
光がはやる気持ちを飲み込んで冷静になろうと息を大きく吸った時だった。
「……ひっ」
由仁子が息を呑むのが聞こえた。
そして同時に、自分と繋いでいる手に強く力を込めたのが分かった。
何があったのかと振り返るも、光の視線は由仁子のそれとぶつかることはなかった。
光が見たのは、目を見開き光の向こう側の水面を凝視する由仁子の怯えた顔。
懐中電灯の灯りを、視線の先に向けているようだった。
光もそちらに向き直そうとするが、由仁子が繋いだ手を強く引っ張ったために体勢を崩してよろめいた。
胸元まで服を濡らしながら、どうした、と声をかけるが由仁子は何も答えない。
何かを凝視したまま、光を自分の元に手繰り寄せるように強く引っ張る以外、動けなくなってしまっているようだった。
ちゃぷん、と背後で水が小さく動く音がした。
そこでようやく、光も“それ”をその目で捉えた。
既視感のある、不気味な顔。
ぬらぬらと光沢のある髪の毛をべったりと顔に貼り付けてこちらを覗く子供。
ついさっき、光が見つけたのと同じ。
『河童』が、そこにいた。